紅の豚で男泣き なんで豚なのか

紅の豚 [DVD]

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金曜ロードショーに間に合う様に帰宅!今夜は紅の豚です!
小学校1年生の頃、大嫌いな友達の家で紅の豚のビデオを無理矢理見せられたうえに「豚人間キモチワルイ」というホラー映画みたいなトラウマを抱えてしまい、とても理解できなかったこの「紅の豚」ということで20年越しの思いで改めてちゃんと見ようと思いました。

あらすじですが、
世界恐慌後のイタリアアドリアーノ海で空賊狩りの賞金だけで生活をする「ポルコ」に対し、ポルコにしょっぴかれ続け長年イライラがたまってきてる空賊連合が恨みを晴らすため、雇ったアメリカ人のカーチスと決闘をするというお話です。

まず 良かったなと思えるところが冒頭にあって、
女の子と金塊がさらわれる冒頭のシーンで「この映画は人を傷つけたり殺したりする映画じゃないよ」という方向性をこの場面で伝えているんですね。で、一貫して人が死ぬ描写が一切ないんです。ラピュタだと人が火の海の中で苦しんだりするシーンがあったり、もののけ姫でいえば開始数分で腕がもぎ取れたりして、惨殺な描写を観てる人に植え付けますがこれは、まるっきりそういった描写をなくしてむしろクスクス笑えるコメディの要素を入れることで「安心して観てください」という暗喩を伝えているんですね。

で、ジーナというヒロインが出てくるんですが、この人はポルコを好きだと言ってるわりには過去に3回結婚してるんですよ。「一人は戦争、一人は大西洋、一人はアジア」と、亡くなった場所を言っている様に夫は全員空軍だったと思うんです。けども、これが日本の時代背景と同じなら「戦争で旦那をなくした女性は一生未亡人のままじゃないのか?」と、イタリアと日本の結婚文化の違いに突っ込みをいれたくなったりもしました。でももしかしたら、もののけ姫もトトロもラピュタもそうだったように、「女性は強い!」というのを表したかったのかなぁとも思えました。というのもも、ポルコが飛行艇を直してもらう際に、修理をするスタッフが全員女性だったと知った際に「全員女じゃねーか!」と言うんですが、工場長的なピッコロが「女はよく働くし粘り強い!」ってポルコを一掃するんですよ。
さらに、ポルコに付いて来るフィオという女の子がいるんですが、映画のメインであるカーチスとの決闘において、「ポルコがカーチスに負けたら、フィオがカーチスの奥さんになる」という人身売買並みの条件で決闘をするんです。ここまで女性の強さを強調することに手を緩めない宮崎駿は改めてすごいなと思いました。

で、僕の男泣きした瞬間というのは、カーチスとポルコが最後に殴り合いをするシーンなんですが、お互い殴り合いで疲れて、立ってるのもやっとのふらふらの状態でカーチスが先に「ジーナがお前を好きだという事をいい加減気付けよ!」と言うんですね。言われた瞬間にポルコは「え・・?は・・?」とした表情を浮かべ顔が真っ赤になって思考が停止してしまうんです。というのも、カーチスもジーナのことを好きだったし、カーチスがジーナを口説いているのもポルコは知ってたからなんですよ!つまり、恋敵に対して、「あいつは俺じゃなくてお前のことを好きなんだよ!」と一発殴るシーンというのが、男同士の友情的なものを感じて、涙腺が緩んでしまうんですよね。

ただ、映画のテーマが「自由な男の生き様」みたいに見えるかもしれないけど、僕は反戦がテーマの映画だと思いました。
というのも、ポルコが豚になった理由は、単なる呪いや魔法というのが劇中の設定になっていますが、魔法や呪いで豚になったんじゃなくて、反戦がテーマだからこそ豚というキャラに宮崎駿がしたんだと思います。
「飛べない豚はただの豚」というセリフが象徴する様に、豚というのは侮辱的な言葉である故、被害者側(第一次大戦でけなしては陵辱をし、大量に殺してきた標的の人たちを豚というメタファーとして)の気持ちをポルコに投影してると思うんですよね。で確か、プロデューサーの鈴木敏夫さんが紅の豚の予告編を作るにあたって空中戦をメインに編集してた際に、宮崎駿がブチ切れたというのを聴いた事あります。と考えると、戦争を肯定する作品で宣伝することに監督の宮崎駿自身がひどく嫌がっていたのが解ります。
だから、ポルコが「第一次大戦以降は人を殺す事を辞めた」というのを劇中で何回もポルコやポルコの周りが強調して言っているのと、映画の冒頭で「これは人を殺したり陵辱するような話じゃないですよ」という設定を解りやすく入れたことと、さらに、一番最後のシーンで全員が老けてジーナの店に集まっているシーンこそが、第二次世界大戦をも乗り越え、本当の民主主義を手に入れた世界を暗喩的に表して、「ポルコも豚から人間に戻れたんだよ」という目に見えない解釈が出来たので、[戦争における人殺し→被害者側に立ち豚となる→民主主義を手に入れ罪を償い人間に戻る=反戦]という見方が出来ました。

グラントリノでもクリントイーストウッド演じるコワルスキーが、朝鮮戦争でアジア人を虐殺した事をずっと後悔していました。そしてモン族と心を通わせるうちにそれまで嫌いだった教会へ通い懺悔をし、近づく事を拒んでいたアジア人に自分の愛車グラントリノをあげちゃったんですね。つまりこれはイーストウッド自身の呪いが解けた瞬間なんです。重複になりますがこれをポルコに置き換えると、戦争が終わり、大恐慌が終わり、何年も経ったあとに民主主義が訪れたときにこそポルコの呪いが解けるんだという解釈の伸びしろを宮崎駿監督は僕らに考えさせるために、あえてポルコの呪いがとけるシーンを入れなかったんだと思います。

今まで宮崎映画はあまり好きじゃなかったんですが、宮崎映画がポニョとかで迷走を続けたからこそ紅の豚の良さが今になってわかった様な気がしました。